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あなたは受け取っただろうか…MADDERからのメッセージ

2025.06.13

あなたは受け取っただろうか…MADDERからのメッセージ

『MADDER その事件、ワタシが犯人です』10話レビュー

ドラマ『MADDER(マダー)その事件、ワタシが犯人です』の最終話が12日深夜に放送されました。
同作は序盤から、天才ばかりが集まる清爛学園を舞台に、同校創立以来初の入試全教科満点で入学した仲野茜(五百城茉央)が、猟奇殺人事件の犯人と思しき青年・黒川悠(山村隆太)との出会いをきっかけに、学内で小さな事件を起こすことで自分の中にある虚無感を埋めていく姿を描いてきました。

しかし茜の同級生の惨死、黒川の過去のエピソードなど、回を増すごとに物語にドライブ感が増していきました。そして第9話では6年後を舞台とし、これまでの出来事は、実は清爛学園出身の依原湊(五百城)が、茜(水野響心)がノートに記したことをもとに、茜の犯罪を追体験していたことが分かります。

今回の最終話では、依原がなぜそのようなことをしたのか、高い位置の茜に対してどんな思いを抱えていたのか、そして黒川悠(以下、悠)との関係性についても次々と明かされていきました。

『MADDER その事件、ワタシが犯人です』
左:梶谷美和(武田梨奈)
中:依原湊(五百城茉央)
右:森野真治(濱正悟)

「弱い立場の人たちの痛みや苦しみに気づいてあげられる大人に」という願い

これまでの物語が依原の追体験だったこと。それに伴って演者も、茜役が水野響心さん、依原役が五百城茉央さんに入れ替わっていること。そういった仕掛けによって、視聴者は『MADDER』をより楽しむことができたはず。

そういったギミックの部分とは別に、筆者自身は第10話を鑑賞して、触られるとちょっとヒリヒリするような気持ちの一部分が描かれていると感じました。そしてそれらは、私たちが生きる上で普遍的な問いかけにも映りました。それは依原の過去です。

彼女のもともとの名前は、浦田景。小さい頃から勉強ができた景に、母親の浦田遼子(佐藤みゆき)は大喜び。遼子は、学びをもとに「まっとうな人間になってほしい」「弱い立場の人たちの痛みや苦しみに気づいてあげられる、そういう大人に(なってほしい)」と言い聞かせます。その言葉の背景にあるのは、かつての恋人・悠との苦い恋愛の記憶。悠の父親は、弱い者は容赦なく切り捨てていく政治家でした。遼子も学歴や家柄で判断され、悠と引き裂かれることに。黒川家に対して嫌な思い出を持っています。

つまり「まっとうな人間になってほしい」「弱い立場の人たちの痛みや苦しみに気づいてあげられる、そういう大人に」という願いは、黒川家に対する記憶が間違いなくあるのです。一方で、筆者が気になったのは、そんな“黒川家の血”が景に流れているという現実に抗えないこと。

父親の悠は頭脳明晰でした。景の賢さも、本人の努力が当然ありますが、しかし資質は悠から受け継がれていると考えられます。さらに性格面でも徐々に「高い位置」の考え方がにじみ出てきます。悠の父親がひき逃げ事故を起こしたことを知って「ひき逃げしたのって、おじいちゃんだよね? やったじゃん。すごい叩かれてる。やっぱお父さん(悠)と別れて正解だったね」と言い、同級生とはテストの点数の勝敗を競った上で「やっぱり上に居続けないとね。発言権なくなるよね」と笑います。

遼子の「弱い立場の人たちの痛みや苦しみに気づいてあげられる大人になってほしい」という願いと、景の成長と現実は、徐々にずれていってしまうのです。やがて景は、家が決して裕福ではないこと、さらに遼子に対して“母親コンプレックス”まで抱えるように。家柄についても厳しくチェックされる清爛学園に入るため、ついには、浦田景から依原湊へと改名まで決意するのです。

景には「誰かの上に立ちたい」という願望がありました。誰かの上に立たなければ自分の声は届けられない、母親の遼子はそういう社会のあり方に負けたんだ――。それはやはり“血”なのかもしれません。悠はそれになんとか抵抗しました。しかし、打ち勝つことはできませんでした。残酷なのですが、これらは社会の“現実”の一部と言えるでしょう。

浦田景=依原湊=仲野茜はいったいなにを得られたのか?

筆者の気持ちがヒリヒリとしたのは、母親に対する景の接し方。いえ、もっと広く言えば人との接し方です。

人はどうしてもマウントをとりたがるものであり、カーストを作りたがるものでもあります。意識していなくてもそういう構図ができあがってしまいます。今の時代、ほとんどの人がなんらかのSNSを利用しています。フォロワー数、いいねの数など、自分自身が持つ“数字”が可視化される世の中です。

学校、会社、友人関係などにおいても、フォロワー数の多い、少ないで“上下意識”が出来上がってしまいます。私はこれだけの人に理解や支持をされている。自分に比べてこの人は……と、せせら笑う気持ちになったり、冷笑を向けられたりしたことはないでしょうか?

たとえばYouTubeチャンネルのオーディション企画やプレゼンテーション企画を見ていても、出演者はすぐに「どれだけ数字を持ってるの?」「お前のことなんか知らん」とか平気で言ったりします。それを言ったらなにも成立しないと思うけど……といつもモヤモヤします。

『MADDER』第2話で、トラブルを起こしてそれを動画撮影し、SNSに投稿するという学生の行動が描かれていました。世の中はもはやそういう考え方ばかりに覆われていて、ちょっとおかしくなっている気がします。数字はもちろん大事です。しかし数字で判断できない物事もたくさんあります。遼子は、良い点数を取ること、数字をあげることは確かにすばらしいけど、その使い道について教えていました。でも景は、それを心から理解するにはまだ若く、“血”のような潜在的に眠るなんらかの意識も影響していたようにも思います。

まだご覧になっていない方のために詳細は伏せます。しかし、遼子が伝えようとしていたことの本当の意味に気づくのが、景自身があまりに悲しい出来事を起こした後だというのは、なんともつらかったです。

視聴者のみなさんは、景がそういった悲劇的な出来事を起こした上、茜を追体験し、悠と悲しい再会を果たしたことで、一体なにを得られたと思いますか? これこそ、『MADDER』で何度となく語られてきた「問いから見つけなければいけないタイプの問題」なのではないでしょうか。
文:田辺ユウキ
芸能ライター。大阪を拠点に全国のメディアへ寄稿。お笑い、音楽、映画、舞台など芸能全般の取材や分析の記事を執筆している。
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